— Still thinking. . .

三菱一号館美術館であったレオナルド・ミケランジェロ展に行ってきた。最近東京でみた西洋美術展のなかではキラリと光る素晴らしさがあったとおもう。その要素について考えてみたい。

本展覧会は、鉛筆やチョークで書かれたデッサンを中心に企画されたものだ。イタリア語ではデゼーニョというらしい。出展数は70点と決して多くないが、広々としたスペースの使い方に作品が展示されており、出展数以上の数が展示されていたかのような印象をうけた。デッサンを中心した展覧会と聞けば、有名な油絵が借りられないので、替わりに原画を集めて展示会に漕ぎつけたのだろうかと勘ぐりたくなるむきも、あろうかとおもう。僕自身にそう行った先入観がなかったわけではないことを告白しなければならない。

そういった期待で臨んだ方は、よい意味で裏切られるだろう。
そのような意外な豊かさが、この展覧会にはあった。

それはデゼーニョに焦点を絞ったからこそ、ルネサンスの二大巨頭ともいえるレオナルドとミケランジェロの創作の過程に光を当てられ​たということだ。

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同僚の大先輩と少し前にランチをした。リタイアもそう遠くない教授だ。そのとき彼が言ってくれたことに、一つ印象的なことがあった。知的生産性を失わずに挑戦を続けるための姿勢、その秘密を垣間見た気がした。忘れないとは思うけれど、風化させてしまうのはもったいない。その前に記録しておきたい。

僕の質問は次のようなものだった。いちど論文やモノグラフに膨大なエネルギーや情熱を投下してしまうと、次の論文などを書く時に「まえ以上のものにしないと」という風に感じて自分自身にプレッシャーをかけてしまうのではないか。そうして苦しくなった経験はないか、と質問したのだ。また、あなたのように自分書いた本があまりにも高い評価をえてしまうと、そのあと本や論文を書く時にプレッシャーにならないか? とも聞いてみた。

彼の返事は僕の予想を裏切るものだった。こんな感じだ。「I haven’t achieved much. So I’ve never thought about it.」「たいしたことをやった訳でもないから、そんなこと考えたことなかったよ。」フランクに、迷いも無く言い放たれた言葉だった。

これは日の浅い若手研究者の謙遜ではない。教授は、長いあいだプリンストンの冠名教授だった。彼のもとで指導を受けた研究者は数多く、幾人もが現在関連諸分野のリーダーとなっている。彼自身は5年ほど前にヘッドハントされ、3学期に1回は在外研究を出来るという好条件(そして恐らくは既に高かった給与を凌駕する高給)を手に、プリンストンを離れた。そしてその後オックスフォード大学に招聘されFord Lecturesという連続講義を担当している。これはイギリス史の研究者にとっては、最高の栄誉の一つとされているものだ。R教授との会話に直接・間接に触発され新しい研究を始めた者もおおく、本の謝辞でもR教授への言及をみることが多い。名実ともに業界の巨頭、ドンだ。こうした華々しい業績をもつ彼が「たいしたことを成し遂げた訳でもない」とフランクに言い放つというのは、一体どういうことだろう。その言葉は僕に強烈な印象を与えたし、多分そこには「わりきり」や「自信」や「良い具合の謙遜」が混じったような、不思議なかしこさのようなものがあるような気がしている。

予想外な応答をしてきた教授に、僕は「あなたほどの人が、自分自身のこれまでの業績や他人の評価からプレッシャーを感じないとは意外だ」と漏らした。すると、紅茶を片手にその理由を説明してくれた。

If I think a lot about how well I did before, and start comparing what I am doing now, if I start being worried about what other people might say about this work of mine in comparison with my previous works, then I would go crazy. You cannot work like that. It is impossible – at least very hard – to work like that.

もしも俺がこれまでの成果のことをしょっちゅう考えて、それを基準に今やっている仕事のことを考えてしまったらどうなるだろう。他の人が俺のこれまでの仕事と比べて何を言うだろうかと気にし始めたら、どうなるだろう。多分狂ってしまうよ。そんなふうに考えながら仕事なんてできないんだ。そうやってこれまでの自分と比べたり、周りの評価を考えながら仕事するのは無理だろうし、少なくともすごく難しいよ。

My works are not perfect. No one ever produces perfect works. Some works of mine have been better received than others; certain people have liked certain works of mine more than some other people did. That’s normal.

俺の仕事は完璧じゃないんだ。完璧な仕事なんて誰もできないんだ。確かにこれまでの成果の中には、より良い反応を得られたものだってあった。人によっては俺のこの論文を、あの論文より気にいるというようなことがあったし、そうやって評価や好き嫌いに差があるのは当然のことなんだ。

宗教史を専門とする教授だけれど、意外にも、シェークスピアの劇作(特に歴史劇)を最近の仕事のテーマに選んだ。それについて彼は次のように付け加えた。

If I had cared too much about what others might say, I wouldn’t have been able to write a book about Shakespeare. There are lots of people who work on his plays, you know! Obviously I didn’t want to screw up, or advertise how stupid I am each time throughout the Lectures, so I did put some effort. But I knew I was taking some risk by choosing to talk about Shakespeare. You won’t be able to take risks if you care too much about what others will say.

もし他の人が何をいうかを気にしてしまったら、俺はシェークスピアについて本なんか書けなかったよ。どれだけ沢山の人があの作家を専門にしているか、おまえだって知ってるだろ?そりゃあ、俺だってバカをさらすようなことはしたくなかったよ。だからそれなりに努力はした。ただ、歴史家としてシェークスピアについて分析をすることで一定のリスクを背負ったことはわかっていたよ。他の人が何を言うだろうかと怖がっていたら新しいことなんてできないんだよ。

一字一句正確には覚えていないけれど、こんなようなことを言っていたと思う。冗談まじりの会話には、やはり泰斗としての自信も垣間見えた。けれど、教授は、少なくとも日々の仕事に携わっている時は、業績にもとづいた自分についての自信や誇りを前面に押し出してはいないようにみえる。むしろ、他人の評価なんて管理できないのだから気にし過ぎてもしかたない、というある種の「わりきり」をみせている。そうして過去の自分や周囲の眼から自分を自由にしているあたりに、経験に根ざした豊かな知恵が感じられた。

彼とて自分の書いた本についての書評を無視しているわけではないようだ。実際教授は、自分が書いた本についての書評は確認していると言っていた。人知れずハラハラしたり、一喜一憂したりもするはずだ。ただ、そういう気持ちの上り下がりから、一定の距離をとるような余裕もきっと持ち合わせているのだろう。つまりこうだ。ジェットコースターのように感情が上がり下がりするのは格好悪い。へりくだったり、物事について諦めたりユーモアをもって斜に構える余裕をもちながら、淡々と仕事をしていく。批判されることもあるし、けなされることもある。もちろん、評価してくれる人もいるのなら、賛辞を止めてもらう理由もないのだ。今振り返ってみると、教授の応答には、なんともクールな「そぶり」があるとも言えそうだ。

他人やこれまでの自分との比較を避けることが、教授自身の「自己防衛」にもなっているとも言える。実際には「謙遜する余裕」を軽く身にまとっていることで、なんとか仕事をこなしているのだろう。そうでないと、プレッシャーに押し潰されるほどの地位と周囲からの期待を長いこと背負ってきたのだ。

つまり、彼の歴史家としてのスタンスには、なんともイギリス人らしいところがあって、きっとそうしたスタンスを上手くつかって、業績が増え、名声を手にし、アイビーリーグの教授になり、学会にいけば周りに研究者や編集者があつまり挨拶してくるようになっても、自分の地位を誇示することはせず、ある時はそうした事実から自由に、そしてある時は軽妙かつ尊大に振る舞って、仕事を続けてきたのだろう。こんな謙遜とプライドとウィットが交差したところに、ひとりの大教授の衰えぬ仕事ぶり、知的生産性を失わずに挑戦を続けるための秘訣があるのかもしれない。

 

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みなさんは、英語の学会発表やセミナー発表を聴いた時、思うように理解することができず、苦労した経験はないだろうか。ネイティブや帰国子女ならばまだしも、そうでない場合はどうするのか。これは日本ベースの人文・社会科学の研究者が国際化に対応する(もしくはせざるを得ない)場合に避けては通れない共通課題の一つかもしれない。経済学などは英語が共通語として普及している反面、社会学、歴史学などでは日本語と西洋言語の両方が必要になる事もおおく、また外国語も英語一本絞られる必然性もない都合上、「国際化」といってそう一筋縄ではいかない事情がありそうだ。
僕自身はと言うと、学部3年になるまでは海外といえば旅行で数日程度だったので、学部卒業後に留学するなりかなり苦労した(その苦労の一端については、以前TEDx yzというイベントで話したことがあった)。最近、発表を聴くコツは?という質問を目にしたので、自分の場合の経験を思い出せる範囲で共有してみたい。
【分からないのは相手のせいかもしれない】
隣の芝は青くみえるものだ。ネイティブでないと、議論が分からないのは自分のリスニングのせいだと思ってしまいがちだ。(少なくとも自分はそういう思い込みに随分苦しまされた。)けれど、ネイティブの専門家でも100%分かるなんてことはまずない。そもそも内容が完璧でないwork-in-progressを発表することも多い学会やセミナーでは、内容も発展途中であることがおおい。だから「議論についていかれないのは自分のせいだ」という感覚からまずは距離をとろう。それだけでも楽になるかもしれない。場所によっては、発表の途中で挙手をしたりして事実を確認したり出来る場合もある。その場合は積極的に確認をするとよいだろう。
【重要な論点と議論の構造を大づかみにしよう】
ディテールも大事だが、各論がどういうglobal argumentを支えているのかを把握するように(自分の場合は)心がけている。そもそも発表はどのようなエビデンスで、先行研究とどのような差異化をはかっているのだろう? 良い発表はこうした発表者としての意図を直接・間接に上手く伝えてくれる発表にちがいない。 それが上手く伝わってこない場合は質問をしてもう一度説明してもらうと良いだろう。 聴いている言語でメモをとると、よいような気がするが、これについては個人差もあるかもしれない。
以上の論点は個別的なコツと言えるものだが、以下は、どちらかというと日頃の環境づくりについて。
結局「外国語で発表を聴くコツ」というのはそれほど多くなく、結局は日頃の環境づくりや創意工夫が、中長期的に違いを生み出すような気がしている。そんな感覚をもとに、以下のポイントを列挙してみたい。
【普段からターゲットの言語に身をさらそう】
僕の経験では、留学前はひたすら英語のラジオを聴いていた。最近であればフランス語のラジオを流して作業などをしていることも多い。電車などで聴いたフレーズを口走ったり(シャードイングというらしい)すると、たしかに怪しい人にはみえてしまうけれど、そうすることで、耳も慣れてくるし、いずれは発音もこなれてくるかもしれない。 些末なことかもしれないけれど、普段からこういう環境を作っておくことで、いざセミナーに行った時に相手の行っていることが半分近く分からなくても、「それは相手のせいもあるのだろう」くらいの図々しさや度胸で質問できたりするような気もする。
日頃の工夫によってえられるちょっとした環境の変化は、実は色々ところでプラスに働くのかもしれない。それは英語の発表を聴く場合にも言えることだろう。
【色々なセミナーに行ってみよう】
自分の研究と直結するセミナー以外は行かない、そもそも忙しいのだ、、という人も多いのではないだろうか。私見だが、関係性の低そうなものでも、日頃からなるべくアンテナは広めに張っておくと、研究者としての幅が広がると思う。特に若いうちは(自分もそうだけれど)、自分の領域を限定しないで知見を広めるのがよいだろう。そのような余裕やエネルギーは、後になればなるほど捻出が難しくなるはずだ。研究のすそ野が狭いまま、忙しい専任職についた場合、おそらくは新しい研究を進める余力をみつけるのは難しく、似たようなテーマの縮小再生産を余儀なくされる場合すらあるかもしれない。 教育プロバイダとしてはまだしも、研究者としては避けるべきあり方ではないだろうか。
出来るだけ多様なセミナーや国際シンポジウムを覗いてみること。例えば留学中などは気に入ったセミナーには足繁くかよって「レギュラー」になることも、やはり英語議論についていけるようにするための一つの方法だと思う。
【セミナーに行ったら質問をしよう】
僕が行くような分野の日本のセミナーでは、質疑になると「大御所」が最初から話しつづけ、特に院生は黙っていて休憩時間にようやく質問をしはじめるのを目にすることもある。TPOにもよるけれど、若手が元気よく活躍しない分野は、斜陽産業になってしまうのではないだろうか。それでは参加している院生も時間ももったいないだろうし、積極的に発言をしてみてほしい。また研究会の主催者や司会には、ぜひとも院生および若手全般の積極的な発言を促してほしい。英語圏では、発言をすることで、はじめてセミナーや学会に貢献したと見なされる場合もある。日頃から積極的な姿勢を持つようにするとよいのではないだろうか。 ただ、慣れない文脈で質問をするのは当然緊張する。僕がヨークで院生をしていた時は、(特に博士課程に入ってからは)出来るだけ毎週外部スピーカーのくるセミナーに出席し、出席したら必ず質問をするようにしていたけれど、口の中が乾き、心臓がバクバクしていたのを覚えている。当時は、水を持っていって、沢山飲んで落ち着こうとして、途中でトイレに行きたくなってよく挙動不審になっていたけれど、それも今となっては思い出の一つだ。いまなら、ハンカチにエッセンシャルオイルをたらして、その香りで落ち着こうとするだろうと思う。
100%理解することなんて出来ない、ということを書いたけれど、発想を逆転すれば、有意義と思える質問を出来る程度に聴けていれば「とりあえずは、十分」と考えることも出来る。
そうすると、「では有意義な質問とは何か?」という問題がでてくることになるけれど、これはこれで面白い問題なので、また余力があったらポストを書いてみたいと思う。
【自分のやり方をみつけよう】
以上は、僕の個人的経験をもとに書いたものにすぎない。それぞれが試行錯誤するなかで自分のスタイルを身につけていくのが良いのではないだろうか。 こんなコツや考え方もあるぞ、という方は教えてください。
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久々にブログの更新です。

今後アカデミックライティングについてのワークショップを開催したいと考えているので、どうやって英語でライティングをしはじめるか、という「最初の一歩」の踏み方、そしてその後の推敲をどうすればよいかについて書いてみます。

僕が共有したいのは「フリーライティング」という「アイデアを吐き出す方法」についてです。

Academic writingについての大体のアドバイスは、英語で文章を書ける人が、既にドラフトを書いた後、どうやって推敲するか、という段階で役にたつようなアドバイスが多いです。(例えば受動態があったら能動態にしよう、とか長い文は二つ以上に分けよう、とか)。つまり推敲の対象となるドラフトを「書ける」ことがそもそもの前提になっています。

では「論文で読むような英文なんてとても書けない」と思っている場合はどうしたらよいか。

僕が学部・院生時代に最初にぶち当たった壁は「なんだこの駄文は」とか「自分は勉強がたりないのでは」とか思ってへこんでしまって、文献を読み続けてしまったり、ネットをやったり、ライティングが進まなくなってしまうことでした。3年くらい博士課程に入ってから、これをwriters blockと言うらしいとようやく知りました。

ではどうすればいいのか。初めて書きだす時は、初めてなりの低めの期待感でwritingをする、ということがコツのようです。とりあえず5分10分でもいいから、時間をきめて、文体や言い回しは一切気にしないで、メチャクチャでもいいからとりあえず、アタマにあることを英語で吐き出す。その5分間は止めないようにする。書けない場合は「oh I feel afraid. I can’t write!!」とか書く。それでも何とか続けられるように、事前に箇条書きのアウトラインだけでも準備しておくと、それが「手すり」になります。(アウトラインは日本語でも英語でも良いかもしれません)。

この「とりあえず吐き出す」方法を「フリーライティング」といいます。(僕は期待感を下げる為にも、”freewriting on XYZ”というようなワードファイルを作って、そこでやりたい放題に書くようにしています。個人差はかなりあると思うのですが、人によってはかなり緊張したり、止めたくなったり、逃げ出したくなったりするかもしれません。(僕はそうなりがちです) その場合は、気に入っている音楽をかけたり、アロマテラピーをしたり、その後食べるデザートを決めておいたり、なんであれ「精神的障壁」を下げる工夫をしてみるといいかもしれません。めちゃくちゃな文章のような何かを一段落でも二段落でも書いたら、休憩でもして、体裁を整えてプリントアウト、その後はアイデアを発展させたり、推敲したりする段階になるので、そこで以下の本が役にたってきます。

Gordon Taylor, The Student’s Writing Guide (1989).
Step-by-stepのエッセイの書き方とリバイズの仕方だけでなく、準備段階となる論文の読み方、分析の仕方についても網羅してあります。表向きは学部生むけということになっているですが、院生・PD・研究者でも参考になる内容です。特にopening paragraphを数回にわたる推敲でどんどんと改善していく箇所や、author’s intentionについてリスト化してある箇所などは眼から鱗でした。新しいエディションも出ているようです。

Joseph Williams, Style: Ten Lessons in Clarity and Grace (various
editions). センテンス・パラグラフレベルでの推敲の仕方に特化した本です。これも評判がよく、これについている例題をやることで読者は我々の文章どう読んでいるのか、ということについて考えられるようになりました。色々なエディションがあるのですが、昔のエディションで練習問題がついているやつが特に良いと思います。

Wayne Booth et al., The Craft of Research (3rd ed., 2008).
リサーチに必要なクリティカルシンキングについてのさらに網羅的なガイドです。個別の分析が持つ「大きな意義」について考えさせるresearch questionについてのセクションや、warrant、qualificationについて箇所などが秀逸です。推敲や論文の準備段階はもちろん、研究計画書の準備にも役にたちます。

Oxford Learner’s Dictionary of Academic English[OLDAE]
用例が学術論文から集められているという最高の代物。収録単語数は少し少ないですが、用例とコロケーションが充実していて、これを確認すれば、どんな言い回しが可能(不可能)かが分かるので重宝します。付属のCD-ROMをインストールすると、強力な辞書がPC上で使えるようになります。図書館が持ってるかもしれません。

同時に語彙力を高める為の辞書としては、Longman Language Activatorもお薦めです。アマゾンのリビューにもあるように特徴的なのは単語の他、フレーズも幅広く採用されている点で、例えば complain をひいてみると、protest, moan といった類義語の他に、make a complaint や go on aboutといったフレーズも掲載され一緒に説明されており、類義語のニュアンスの違い、またそれぞれの用例が簡潔に示されています。こうしたニュアンスはネイティブを前提にした類義語辞典やシソーラスには書かれていないので、とても役にたちます。実際にラフなドラフトが出来ていれば、例えば自分の言いたいことをよりよく表現している単語やフレーズを見つけ、Activatorで、その単語をしようしたアカデミックな文章の用例をOLDAEで検索、なんてことも出来そうです。

これらは博士課程の時かそれ以降に友人・先輩から教えてもらって、「あぁもっと早くに読んでおきたかった」と痛感した本や辞書です。みなさんはどんなtipがありますか?

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12888668_10206479960822700_1491928236269067107_o昨日、慶應義塾大学東館8階にて、上記のシンポジウムがありました。僕も「政治をデザインする」というテーマに関連して8分ほどお話をさせていただきました。その時の音声ファイルをあげておきます。「日本に民主主義は馴染まないんじゃないか」とか「デモにいっている人は遊び半分、目立ちたい半分でやっているのではないか」というギモンを持つ人に何度か出くわしたのですが、そうした疑問に、歴史的視点から自分なりに答えてみました。途中からどんどんテンポ早くなっているので、ちょっと恥ずかしいですが、ご興味のあるかたはどうぞお聴きください。
【追記:スライドも、著作権上問題のあるイメージをのぞいてアップしておきました。音声が不明瞭な箇所はスライドをみながらご覧下さい。】

 

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先日書いたポスト「デモの不安と市民の自由」においては、デモの自粛を求める人達の議論にたいして反対意見を述べた。自粛を強いられた状態は、民主主義にとって不可欠な政治的自由を奪われた状態とさえ言えるかもしれないと意見した。

では、仮に有権者の政治的自由を最大限にみとめ、人々の路上での抗議行動を認めたとしよう。それは社会的秩序が失われることにならないのだろうか。自由を最大限認めたデモクラシーにおける社会的秩序とは、いったいどのように確保されるのか。このように問う人は、特に政治や行政に携わっている人達の中に、沢山いるのではないだろうか。

ここで「秩序がなくなる」と言った時の含意はなんだろうか。暴力に訴えること、デモ自体が教条化する・セクト化すること、などがありそうだ。つまり抗議行動を許すことの不安の源泉には、政治的自由を行使している有権者集団そのものが、結局のところ他者の自由を否定し、民主主義的討論のプロセスに、言葉と物理的暴力を持ち込むのではないか、という疑惑があると言えそうだ。つまり、自由と民主主義を尊重したい有権者は、抗議行動が言論と行動において過激化する(もしくはしている)のではないかという不安には、真摯に応える必要があろう。これは、政治・行政に近しい人だけでなく、実に沢山の人が共有している不安かもしれない。

実際、過激化・セクト化の不安は、戦後日本には特に根深いものだと言えるだろう。学生運動や抗議行動が世界的に広がったのが1960年代だ。日本でも、安保闘争をはじめ、一連の抗議行動が勃発した。「総括」や「内ゲバ」といったフレーズが彷彿とさせるように、暴力による革命的政変を求めた集団は、分裂と過激化を繰り返し、グループ内部においても異論を認めない者をリンチした集団として、歴史に名を残すことになった。もちろん、現代日本から離れた時代・場所においても、特定の政治的(もしくは宗教的)理想を掲げた集団が、セクト化・過激化した例は数多くある。ピューリタン革命直後のイギリスにおいては、検閲制度の停止後に宗教的セクトが乱立したし、1789年にいわゆる「人権宣言」が採択されたフランス革命最中のパリでは、ジャコバン派などが崇高な理想の名の下に「テロル」を正当化し、「革命の敵」政敵と認定された多くの男女をギロチンによって処刑した。自由や国民性などの「歴史上の大きな理想の祭壇において、個人が殺戮されてきた」という事実を直視せよ、と喝破したのは哲学者のアイザイア・バーリンだ*。自由と民主主義を尊重する私たちは、政治的運動は分裂・過激化しやすいものだと認識しておく必要があるだろうし、政治的理想が暴力を手段として肯定してしまう危険性を、一時も忘れてはならないだろう。

しかし、だからといって、デモや公的な場での抗議行動が過激化してしまうのは避けられないのだろうか。私たちは「デモなんてあぶない運動家がやってたことだろう」という主張を黙って見過ごしていればいいのだろうか。ここでも、戦後日本のケースだけに埋没する必要はない。歴史を振り返れば、抗議行動が多くの人々の心を動かし、そして過激化を巧みに避けつつ重要な結果を勝ち取った例をみつけることができる。マハトマ・ガンジーらが行なった「不服従運動」アメリカのキング牧師などが参加した「公民権運動」などは教科書にも載るような著名なものだろう。また、1968年に学生運動が波及した際は、例えばオランダでも学生・教員による抗議行動があった。その運動は一定の成果を勝ち取ったし、本年2015年にも、アムステルダムの自由大学では、学生の数が少ない語学コースの廃止を打ち出した経営陣に対して、学生と教員が抗議行動を展開している**。その結果、語学コース縮小は要求どおり回避されることになったようだ。これらの個別事例からは、抗議行動を政治的プロセスに活かしていくために必要な諸条件についても、多くのことを学ぶことが出来るだろう。しかし、今の私たちには、抗議行動が政治過程において積極的な役割を果たしている社会があることを確認するだけでも、十分なはずだ。「抗議行動は過激で不毛」と決めつける必要はないこと、デモのような抗議行動が、ガバナンスの仕組みの一つとして機能する可能性が実際にあること、これらの事実を念頭において私たちは日本の政治社会の未来を想像し、創造することができるはずだ。ちなみに、アメリカの公民権運動に先立って、1930年代南部アラバマ州において黒人の差別撤廃に向けて活動をしていたのは、実は共産主義者だったことが、UCLA教授のロビン・ケリーらの研究によって明らかにされている***。共産主義者の関与を漠然と否定的に捉えることは慎むべきであろう。

では、現代日本のデモと言論の話題に戻ろう。日本において過激化のリスクを慎重に避けながら抗議を継続していくには、どのような工夫が必要だろうか。ここでは、自由と民主主義を尊重する人達が、特に日本で政治的主張をしていく時に留意するとよさそうな原則を列挙してみたい。

1)【暴力の否定】暴力の肯定は憎しみや悲しみを生み出すし、抗議行動の社会的なすそ野を狭めてしまうことにもなるだろう。これは抗議行動を持続化にするための大前提だろう。

2)【発言をする有権者へのリスペクト】そもそも政治的な話題を日常的に議論する習慣がそれほど強くない今の状況では、匿名でむやみやたらに絡んでくる人は別にして、特に実名で政治を話題にすること自体、それなりの勇気がいる。政治的意見を責任をもって公表できる人がこれから増えていくように、なるべくリスペクトを持って接するようにしたいものだ。

3)【人格抗議を避ける】水平的な議論や異論反論においては、相手の人格を攻撃することのないように留意しよう。「こいつはバカ」とか有権者に向かって宣言すべきではないし、「売国奴」や「反日的」などのフレーズで相手を批判するのは論外にしても、進歩的な意見を持つ人が「へサヨ」「クソフェミ」のようなレッテルを貼って議論を終了するとしたら、ネトウヨと同じレベルになってしまうだろう。

4)【建設意見と揚げ足取りの区別】その為にも、建設的な議論をしようとしている人と、揚げ足取りが目的になってしまっている人との区別を慎重にしよう。意見や政治的価値観が違っても建設的な議論を出来る方もいるし、進歩的な価値観を共有していても、建設的な議論を出来ない人もいるものである。揚げ足取りをしようと思っている人に対応し続けると、議論自体が空転したり、不要に険悪な空気だけが蔓延することになるだろう。

5)【新参者の心構え】特に日本特有の状況だが、これまで政治活動をしてきた人達と、最近政治について抗議行動に参加するようになった人達との距離感には気をつけたい。長年にわたって抗議活動などに携わっている「古参」の方々は、これまで警察や公安などの有形無形の圧力や、不当逮捕の危険などに直面してきたことが推察される。60年代の学生運動のあと、大部分の日本人が政治から遠ざかっている時代において、そのような人達が直面した不安や憤りやご苦労などは、想像をすることすら難しい。2011年の震災後に、私のような「新参者」が気軽に抗議に参加できたのだとしたら、やはりそうした方々の苦労やノウハウに負うところが多いのではないだろうか。その事実を認めたうえで、一定のリスペクトを持って抗議のあり方や、前提となる政治的スタンスについてお互いに吟味をし、異論反論を展開するのが理想だろう。そうした立場の違いを逆手にとって「おれは古参なんだ」とひらきなおったり、権威的な態度をとったりするのが望ましくないのは、言うまでもない。

6)【色々な距離感をみとめる】緩やかな連帯と言論空間が維持できず、急進化がすすんでしまうことがある。例えば自分の仕事や(学生であれば勉強や就職活動)を犠牲にして政治的異議申し立てに身を捧げた人達が似た者どうしで結束を強めてしまうと、片手間で抗議に参加した人達を「覚悟が足りない」、「俺たちはもっと大変な目に遭っているんだ」という風に批判したくもなってしまう。これは参加へのハードルを上げることになる。「少数精鋭」と言えば聞こえがいいかもしれないが、実際は、異議申し立ての社会的な支持基盤が掘り崩されて「セクト化」が促されているようなものだろう。批判されている政権にとってこれほど都合のよいことはないだろう。

7)【未完のプロジェクトとしてのデモ】最後に決定的に重要な論点として、デモや抗議行動というのは、つねに変わりゆく政治過程の一部であって、発展途上にあるということを忘れないようにしたい。つまり、特定のデモや議論や出来事をさして「◎×のデモはすべからく過激だ」と結論づけることのないようにしたい。それは、一度失敗した起業家にレッテルを貼って二度と信頼しないようなものである。それではビジネスにおいても政治においても活力が失われ、長期的にはジリ貧におちいってしまうのは同じではないだろうか。むしろ、抗議行動は民主主義そのものと同じで「未完のプロジェクト」であるはずだ。人間は過ちを繰り返してしまう弱い存在であるが、そうした弱い人間の集団が「にもかかわらず」現状の改善と進歩を望み、過去から学び、地道に「不断の努力」を続けていく。これこそが、民主主義における政治的権利の行使というものであろう。そのプロセスに向き合う決意を、美しくも正鵠に表現したのが、以下に引用する日本国憲法第12条である。この憲法の精神にのっとり、常に公共の福祉のために、政治についての自由および権利を行使していきたい。

 

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」

 

2015年8月22日
山本浩司

 

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*バーリンの論文「二つの自由の概念」の原文[Two Concepts of Liberty] はこちらから読むことが出来る。https://www.wiso.uni-hamburg.de/fileadmin/wiso_vwl/johannes/Ankuendigungen/Berlin_twoconceptsofliberty.pdf 「自由」や「正義」などの理想の名の下に正当化されてきた幾多の暴力と悲劇を振り返ることで、およそあらゆる理想を標榜する国家や政権の介入から自由であるべき個人の領域を「消極的自由」として析出した論文。20世紀政治哲学の名著。日本語訳は「自由論」みすず書房に所収。
**1968年のアムステルダムでの学生運動については、オランダの大学院生が作成したものだが、写真やインタビューなどが豊富な次のサイトが参考になった。http://www.occupytheuniversity.uva.nl/the-maagdenhuis-occupation/
今年になってからのVUでの抗議行動(8月現在継続中)については、次のサイトなどを参照のこと。https://www.facebook.com/NewUni
***Robin Kelley, Hammer and Hoe: Alabama Communists during the Great Depression (1990), p. 116 et passim.

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SEALDSの主催するデモなどに参加し、政府にたいして声を上げたら、就職や、自分の生活のどこかで不都合が生じるだろう。こんな不安を煽る人がいるようだ。たしかに、本当に沢山の人が(僕自身もふくめて)似たような「漠然とした不安」を感じたことがあるかも知れない。

ところで、こういった不安が蔓延する社会に「政治的自由がある」と言えるだろうか。古代ローマや17世紀のイギリスでは、それを「自由が失われた状態」と考えた論客が多くいた。そう考えたのはなぜか。それは、寛大な家長が奴隷に発言や行動の自由を与えてやるのと少しも変わらないからだ。「奴隷の自由」は家長が奪おうと思えば簡単に取り去ることが出来る。このように、自由が恣意的に奪われてしまう「可能性」が常に残されている状態は、本質的に自由が実現しているとは言えない。古代ローマの自由論を継承したイギリスの評論家はそのように考えた。

では、今の日本ではどうだろうか。私たちは、たしかに移動の自由、宗教の自由などが認められている。政治的発言の自由はどうだろうか。奴隷を持つ家長はいない。けれども、顔の見えない「公安」のようなキーワードと一緒に、「職場や学校や就職で不都合が生じるかもしれない」という不安がココロの裏口から忍び寄ってはいないだろうか。僕自身の告白をすれば、2011年の原発事故がおこるまでは、 自由を行使しようと考える以前に、脊髄反射のように政治的発言を自粛してきた自分がいた。説明の出来ない不安を知らずに抱え込んでいたし、不安を内面化していたことについても、深く考えていなかったからだ。

こうした漠然とした、空気のように蔓延する「不安」が持つ、ひそかで、しかし大きな影響を、忘れないようにしたい。政治的信条の自由や発言の自由は色々な方法によって侵害することができる。自由の侵害は、リンチや監禁や不当逮捕だけでなく、まさに「漠然とした不安」を意図的に広げることによって、最も効率的に実現されるのだ。そして皮肉なことに、こうした権利の最たる侵害が「日本のため」国体の「保守のため」などという美辞麗句によって飾られている 。これは当然のことだ。つい数百年前まで、西欧諸国は植民地支配を「社会の改良」「文明の進歩」と言って正当化してきたし、奴隷制だって似たようなスローガンによって誤摩化して来たことが歴史家たちの研究の蓄積によって明らかにされている。けれども、自由の侵害が「社会貢献」のオブラートを包んで忍び寄ってくる構造を、僕たちはコトバであぶり出すことが出来る。 例えば問題 に名前を与え、自分たちの日常をふりかえれば、反省をするきっかけにもなるし、一緒に対策を考えることだって出来る。こうやってコトバを通して、現実を吟味していく作業の可能性を僕は信じたい。戦前の言論統制、大政翼賛体制、そして空襲、原爆、敗戦の後に手にした自由は、家長があたえる奴隷の自由ではなくて、 市民の自由であったはずだ。先代の血と汗と涙を無駄にすることなく、その自由を守り、建設的に使っていきたい。

山本浩司

 

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このウェブサイト、http://leme.library.utoronto.ca/ 辞書のエントリーなどが一挙に検索出来るようだ。これは便利。

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企業・コーポレーションについての学際的なハンドブックへの短い原稿を、編者のコメントにしたがって推敲、提出した。いずれケンブリッジ大学出版局から出版される予定。資本主義を巡る経営学・社会学とは、もう少し本格的に取っ組みあいたいと思っている。
プロジェクトのウェブサイト。http://www.city.ac.uk/law/research/the-critical-corporation-project/about
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久しぶりにスタッフォードのアーカイブに史料の確認のため連絡した。スタッフォードはバーミンガムとマンチェスターの間にある小さな街。これは7年前一週間滞在したときに撮ったSt Mary’s Church。昔は中心街をぐるっと壁が囲んでいたけれど、20世紀前半に取り壊してしまったらしい。ただ近世のおもむきは色濃くのこっていて、壁が残っていたら結構な観光資源になったのだろうな、と思った。次のサイトに幾つか写真が載っている。
http://www.imaginingstaffordshire.org.uk/mt/mt14.htm
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先日までこちらに来ていた若年成人癌を研究しているドクターの友人に、いろいろ相談してみました。

彼との会話+データのテストランで分かったこと。
そもそもデータをとりにいく前の理論武装とか、見立てや、諸項目の定義が圧倒的に重要。それがある程度確信的に定まってからデータ収集をするべくアーカイブにいくべき。これは、プロトコルを決め、なにを主要評価項目にするのかを事前に決めてから臨床試験を走らせることと少し似ている。こうした事前の作業をどれだけセンスよく、また先行研究を踏まえて出来るか、ここが決めてのようだ。また、評価項目の定義自体をどこからとってくるかも重要。それによって比較の対象が変わってくる。

あたりまえかも知れませんが、テーマが決まったら、とにかく史料を読んでそこからground upでやっていく仕事とはかなり勝手が違うようですね。
KKVとして知られるDesigning Social Inquiryの方法論との相違や補完性も気になるところです。

http://www.amazon.co.jp/Designing-Social-Inquiry-Scientific-Qualitative/dp/0691034710/ref=sr_1_1?s=english-books&ie=UTF8&qid=1425280394&sr=1-1&keywords=designing+social+inquiry

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パーラメントの史料室4日目。まだまだ苦戦中。

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法案の一文字目のflourishがなかなか奇麗でした。これは’Whereas’の’W’ですね。
このような法案を何本もみているのですが、そこから出てくる経時的なトレンドをデータ化・可視化する時の評価対象と評価基準、それらの定義の設定が難しく、かなり悩んでいます。アクターに注目した厚い記述による人文学的なケーススタディと、より俯瞰的・巨視的アプローチの接点を探る作業です。模索が続きます。

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昨日のNoah Millstone (Bristol)によるセミナーは素晴らしかった。Past and Presentに出版された論文と基本は同じ路線。セミナーがあったのは写真のクレア・ホールカレッジ。

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ここ数日はParliamentary Archivesで史料調査をしています。

下の写真がパーラメントです。左奥には大きな時計、ビッグベンが見えます。
史料室(アーカイブ)は右の塔のさらに右側の方にあります。

パーラメント。右の塔のさらに右側の方に史料室があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

河川航行に関連する法案の原本をみています。
このように羊皮紙(パーチメント)という革をなめして紙状にした巻物に法律が書き込まれます。

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みた感じはこのような具合です。史料をみていくのは楽しいですが、
開館時間が10−16時と短く、今回は情報をデータ化しようと思っているので、なかなか苦戦中です。

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Copyright: Parliamentary Archives, HL/PO/PB/1/1664/16&17C2n22

 

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あっという間に一週間が過ぎ去っていってしまった。こんな時こそ、きちんとした生活のリズム、気分転換、食事と睡眠時間が大切。締め切りが続きます。もう一踏ん張りです。写真はアボガドの入ったサラダ。

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雹のような雨がふっています。寒いです。作業が難航しているときこそ辛抱強さが必要なようです。

Try to do what you think is a great work.

そんなことを言ったのはスティーブジョブスだったでしょうか。 そのとおりだと思います。

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今日は少し ウェルカムライブラリーに行った。科学史、医学史のリサーチ図書館としてはとても便利。重要図書がコンパクトな開架スペースにまとまっているし、貸し出しを行なっていないから借りられてしまって読めない、ということも無い。さらに便利なのはオンラインのリソース。一度利用登録をすれば、EEBOやECCOなどのを含めたデジタル一次史料が、自宅からアクセス出来るようになる。このポリシーは著作権などの関係でこれから変わってしまうかもしれないけれど、覚えておく価値はあり。

オンラインリソースのリストはこちら。

 

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昨日行ったセネトハウス図書館で借りて来た本を読む。セミナーが多く開催されているInstitute of Historical Researchと同じ建物にある図書館。ここ数日急に寒くなった。疲れて散歩にでた時、知り合いのピアニストにでくわした。音楽を通して表現する作業も楽譜というテクストと向き合い、それを再構成する営みのように思える。歴史研究も遺されたテクストに向き合い、そこからストーリーを紡ぐ作業。無茶な解釈は出来ない。しかしテクストそのものがそれ自体で十全に語れってくれる、というものでもない。そこにも不断の対話がある。なにか通ずるところがあるなぁ、と感じてからというものクラシック音楽、とくにコンサートでの演奏にインスパイアされるようになった。明日は大学でミーティング。

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論文の幅の広げ方ですが、原稿を読んでいて気がついたのだけど、The Craft of Researchが言うところの、warrantを意識すると良さそうです。

「急がば回れというじゃないか、ゆっくりやろうぜ」

自分の主張「ゆっくりやろうぜ」の正しさを裏付けする為の共有されたより一般的命題「急がば回れ」が、Booth, Colomb, Williamsがいうところの”warrant”です。(See ch. 7 warrant) つまり、自分が論文でしたいXという大きな主張をするための「Aである+Bである+Cである=すなわちXである」という議論の骨子があるとします。ここで例えばA+B+Cにとってのwarrantを、日本語のことわざからではなく、先行研究や少しターゲット読者層にとって妥当、もしくは新鮮なところから引っ張ってくることで、論文の幅が広がることになります。

近年の直近の研究ではaと言われているじゃないか、だから私はAという分析をしよう。

必ずしも通常は関連づけられてないけれど、思想史の分野ではbという分析手法が提唱されているじゃないか、だから私はBという手法を使う。

似たようなトピックを20世紀のフィールドワークで分析しているXYZという分野では、同様の問題をcという手法で分析しているようだ、時代錯誤になるわけではないけれど、この分析手法はCに使えると提唱しよう。

つまり、自分の主張がすでに定まっているとしたら、A+B+Cというsub-claimsをノートに書き出すなどして特定して、その際さらにwarrantとなるaやbやcが何でありえそうかを考えてみるといいのかもしれません。 もちろん、こうしたwarrantのすべてを序論で展開するか、もしくはこうした主張A/B/Cが展開される段落の冒頭にwarrantを投下する、こうした判断は個別にする必要がありそうです。また、明示的にwarrantですよー、という風に旗振りをする必要も必ずしもなく、さらりと触れる程度でも十分な場合もありそうです。17世紀中頃の改革サークルを扱った拙論で社会学者ゴフマンと医療社会学に触れた時はそんなイメージでした。 以上が論文の幅を推敲の過程で広げていく方法の一つかも知れません。定式化してみたのは初めてでしたが、汎用性はありそうでしょうか。ふー、目下の作業でもうまく出来るといいのですが。とにかくエネルギーを使いますね。

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山積みの文献。。これらを序論で言及することで議論の幅を広げる作業をしているところです。昨年末にツイッターでもちらりと書きましたが、自分が事例研究を展開している場合、その事例を通じてより大きい研究上のテーマにどのように貢献出来るのか、これを自問する必要があります。言うは易し、とはこのことですね。もう少しの辛抱です。

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昨日はトリニティ・カレッジのロッジで私が関わるCrossroads of Knowledgeという研究プロジェクトの発足記念パーティーがあった。プロジェクト自体は昨年10月から始動していたけれど、予定が合わず今年になって立食パーティー。40人くらいはいたかな。ただし、自分にとってはハラハラだった。その前日(1月13日午後)からちょっと食中毒のような症状があったからだ。とあるカレッジの昼食を食べた直後から微熱や吐き気などの症状が出たのだけれど、ビュッフェで同じものを食べていた現地の同僚は当然問題なし。時差や飛行機の移動で抵抗力が下がっていたのかも。   パーティー直前にレッドブルを飲み干して切り抜けた。意外と効くものだ!  しかしパーティーなんかに行く機会があると(滅多にないけれど)、英語圏アカデミアでの典型的自己顕示の百花繚乱となる。上下関係はあるけれど、ポジションが上の人に対しても、どれくらい面白く話しを展開していくか。質問を投げかけるチカラ。   昨日はシェークスピア研究者でデジタル人文学にも造詣が深いJonathan Hope教授によるワークショップもあった。これについては、もし余裕があれば一つ備忘録的なエントリーを書きたい。

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今日は、大学でプロジェクト・チームのミーティングです。その合間に原稿の準備を。
昨年末にひいた風邪がなかなか完治しません。

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長時間の移動があったので、昨晩は疲れを取るべくストレッチをしてから寝た。10分もやらないでも効果を感じられるのは嬉しい。

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しばらく休止していたブログですが、ぼちぼち更新していきます! 月末に学会のpre-circulation締め切りが一つ。その前に、科学史論文を再投稿します。

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Institute of Historical Research であったセミナーに行ってきた。

 

22 October 2013
Simon Schaffer (University of Cambridge)
“Isaac Newton’s time”
Link : http://www.history.ac.uk/events/seminars/109 

 

セミナーはニュートンがケンブリッジに引き籠って書いた「プリンキピア」の情報ソースについての話しだった。ニュートンはイングランドから外に行くことは決してなかったけれど、当時のイギリス帝国の拡大する国際貿易ネットワークを使ってかき集めた天体観測や潮の満ち引きのデータ無しでは、ニュートンは月の引力の影響を証明することは出来なかった。帝国拡大がニュートンの科学的営みに役立っただけでなく、その逆もまた真だった。彼の天文学についての研究は、実は長距離航海に必要だった海上での経度測定の精度をあげる為の応用を意識したR&D的な目論みだったのだ。だから彼は天文学を支えた技術開発に興味を示していたらしくて、ロンドンに行けばガラス職人とか望遠鏡職人のところに通って最新の情報を仕入れたりしていたらしい。きっと「こんなの作ってくれ」とか頼んでいたのだろう。科学知識の発展と技術的進歩、その両者と政治的または商業的利害との近さ/proximityを感じる発表だった。それをシェイファーはHistorical geogrpahy of Newtonian physicsという風に語ろうとしていた。ひょっとしたらこれがそのうち論文のタイトルになるのかも知れない。

 

情報ソースや技術応用の次元におけるニュートン物理と帝国拡大の密接な関係、またニュートンと職人や商人との緊密なネットワーク、それらの社会性がニュートン科学の理解に決定的であるという主張は、科学の営みの社会的基盤を様々な形で分析してきたシェイファーらしいものといえるだろう。

 

 

関連文献

 

Simon Schaffer, ‘Newton on the Beach: The Information Order of Principia Mathematica ‘, History of Science, 47 (2009), 243-276.
http://www.ingentaconnect.com.ezproxy.york.ac.uk/content/shp/histsci/2009/00000047/00000003/art00001;jsessionid=21pvt5d8w1lii.victoria

 

Rob Iliffe, ‘Material Doubts: Hooke, Artisan Culture and the Exchange of Information in 1670s London’, The British Journal for the History of Science, Vol. 28, No. 3 (Sep., 1995), pp. 285-318.
http://www.jstor.org/discover/10.2307/4027646?uid=3738032&uid=2&uid=4&sid=21102795991211

 

Adrian Johns, The Nature of the Book: Print and Knowledge in the Making  (1998).
http://books.google.co.uk/books?id=zobsj8npWeAC&printsec=frontcover&hl=fr&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false 

 

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論文を読んだ。以下は簡単なまとめ。

 

スェーデンの裕福な学者の子としてうまれたスヴェーデンボリ(1688-1772)を現代の職業的カテゴリにスッキリとおさめることは難しい。20代にロンドンに滞在した時から海上航行中に経度を測定する方法という大問題に取り組み、後年までその営みを続けたし、ロンドンから帰国しまもなくすると、政府の官吏として鉱山・鉱物調査に取り組み、のちには天文台の設立を働きかけ、また世界の起源を解き明かす書物や、神や天使が世界の摂理において果たしている役割について論じた書物を出版した。スヴェーデンボリの多彩な活動は、これまで一方では経度測定などを巡る彼の科学的活動が当時の啓蒙主義との関係で論じられ、他方で彼の宗教観が(ある種時代遅れの)バロック的、近世的枠組みの名残であると理解されてきた。本論文でのシェイファーの目的は、スヴェーデンボリの活動(特に海上での経度測定を巡る活動)を仔細に辿り、この前近代的宗教vs啓蒙的科学という解釈の構図では汲み取りきれない彼の活動の複雑さを炙り出すことにある。

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作業の合間にシャガール展に行ってきた。リュクサンブール庭園美術館の特別展。1時間ちょっとで見終わる小規模なものだったけれど、作品の色合いと複雑なテーマが素晴らしかった。撮影可能だったものを幾つか。

 

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今日は夕食前までに単著4章前半の推敲をザックリとやります。 そして夕食後パリへ移動。フランス滞在もあとわずかで終わりです。明日は高等研究院EHESSで公共善と私的利益についてのコロックがあります。古代から現代までを横断した野心的な設定のようで参加が楽しみです。
以下プログラムを転載します。

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今日は推敲の作業手続きについて、今後の参考の為にもメモ。

一日ロンドンのフラットで4章の推敲。今週土曜までに一度全体を通して直したfirst-shotを印刷したい。その為に、章の前半を火曜の夜までに、後半を土曜日までに終わらせるという目標。その後日ー水の4日間をバッファ期間にしておく予定で、その後月末、7月初めから次章へ移りたい。
リズムを作るのに役に立っているデバイスはおよそ4つ。 どれも小さなステップを作って、時間感覚を持ってそれに取り組む為の仕組み。

 

1)スケジュール帳。

一ヶ月見開きのページにターゲットと作業期間を記入。 自分が勢いに乗れていない時は、時間感覚もなければ、次にやるべき小さなステップが何なのか、という感覚も漠然としている場合が多いようだ。その場合、そもそも小さなステップを目標としてスケジュール帳に書き込むことすら出来ていないことが多い。 すこし時間を使ってでも、大きなターゲットを小さなステップの集合に分解して、書き出す作業は不可欠だなーと思う。ただこれまでも、そうやって設定した自分への約束が「空手形」に終ることも何度もあったし、そうした「空振り」の繰り返しをしていると、小さな(架空の)目標をわざわざ設定することそのものにむなしさを感じてしまったりもする。だからこのデバイスは他のものと組み合わせて精度と心理的ユーザビリティを高める必要があるように思う。

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ロンドンのフラットで一日リバイズしています。これから向こう2ヶ月で単著の第一稿を仕上げる予定なので、しばらくはこのことについて短めに記録をつけようと思います。 最近学会と移動が続いて作業があまり進まなかったので少し焦っていたのですが、大切なのは作業を小さく小さく区切って、こまめに成果をあげることですね。僕の場合はこれをやることで大分気分が楽になるようです。  単著は序章と結論を除いて全5章。 今は博士論文を元に第4章を推敲しています。 1、3、5章は終っているので、これから2章、序章、結論とジグザグに作業をすすめる予定です。天気がコロコロ変わる一日。PCによれば気温は17度とのこと。

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