— Still thinking. . .

ビジネスのこれまで(とこれから)

リーマンショック以後テレビや雑誌を見ていて思うのは、結構昔のビジネスのあり方を知っておくと、今の問題の整理につながったり、もっと上段に構えれば資本主義のあり方とかを考え直したりする時にも参考になるんじゃないか、ということです。

よく、過去に遡って歴史を紐解くときに、自分の、または自分たちの時代の価値観をむやみに押し付けちゃあいけない、という話があります。「プラトンの書いたことは面白いけれど、あいつら奴隷制やってたじゃん、だめだなー。」というのはプラントン解釈としてはあまり発展性がないわけです。もちろんポストコロニアルとかジェンダースタディと言われるような分野があって、そこでは、18-19世紀の植民地支配や、原住民や女性やホモセクシャルなどへの根強い偏見や抑圧と、同時代の啓蒙主義的・理想的な思想が、どのように両立してしまっていたか、などを問いただす訳です。つまり、一昔前まで、また地域や世代によってはいまだに当たり前のようにみなされている視点や制度、僕らの立ち位置について、かなり真正面から切り込んでいくような歴史の紐解き方というのもある訳です。そこでは過去を振り返ることは、現在地点を見つめなおし、また未来を切り開いていく際の原動力にだってなりえます。

僕は自分の研究もそんな風な営みになったらいいな、と思っています。
実際、昨日自分の研究の枠組みについて日本語で書いてみたら、いつの間にか現代の日本の問題とつなげて考えている自分がいて、なるほどー、と思ったんです。こんな具合にです。

 

金銭的利益が罪と地獄への近道ともされた中世。しかし16-17世紀にもなると、公共善や神の栄光を推進する手段として経済革新・改良が正当化されはじめた。商人や職人だけでなく、土地貴族・聖職者・法律家までもが競って経済活動へと身を乗り出すことになったのだった。

大陸ヨーロッパから職人の入植をすすめ、14年の独占特許と引き換えに技術移転を促す。目標は国内産業の醸成、雇用の創出、輸入代替、そして対外貿易の優 位化と国庫の増強だった。公共善や神の旗印はこれらの経済事業への参入障壁を低め、人・カネ・知識のプールを作り出すことに成功した。

しかしこの正当化原理には重大な落し穴があった。破産寸前の 商人から没落貴族までが、競うようにして内実を伴わない「改善」や「発明」事業を乱発し始めたのだ。それも天下国家や神の名の下に、である。本来は手段で あるべき独占特許制度が自己目的化し、腐敗の巣窟となったのだった。

カネ-そして中世においては人間の罪-がついてまわった経済事業を、公益や神の論理は正当化した。しかし一端スローガンとなり流布すると、それは形骸化し、自己利益の追求と国家権力の濫用へと堕落する不断の危険性を孕んでいたのであった。

正当化原理の機能不全、これが17世紀初頭にイギリスにおいて明るみに出た、黎明期資本主義の根本問題であった。企業の社会的責任(CSR)やソーシャル ビジネスが人口に膾炙する現代を生きる私たちには、驚くほど身近な問題だ。では近世を生きた人間は、一体どのようにこの問題に対峙したのだろう?

こうした視点から資本主義の過去を紐解く研究は少なかった。それはマルクス主義の影響下20世紀の経済史が資本と生産の関係に注意を注ぎ、そして次に、それへの反動として消費行動や大量消費社会の発展に注目してきたからだ。

だから同時代人の視点からこの正当化原理とその形骸化を見直すことは、資本主義の歴史を根本的に読み直すことになる。そしてそれは、近年「企業の社会的責任」とかCSRとか呼ばれるものが、違う形であれ400年近くの歴史があったことを示すことにもなろう。つまり経済・経営学などの知的枠組みへの貢献にもつながるのだ。利益と公共性はビジネスにおいてどのように両立しうるのか。震災復興に直面する日本の企業、地方自治体、NGOの協働作業のあり方にも直結する問題ではないだろうか。こんな問題についてもう少し掘り下げて考えてみたいと思う。