— Still thinking. . .

異邦人をつくるのは誰だ

2月から研究でパリに滞在している。こちらに来てから現地の友人に薦められてカミュの『異邦人』(1942)を読んだ。

英訳を読みながらだけどフランス語で読むことの出来た最初の小説。美しく簡明な文体で植民地時代のアルジェリアの生活が描かれて行くけれど、主人公が隣人のトラブルに巻き込まれることで逮捕、収監され、そして裁判が始まり、彼のその尊い日常性は壊され、彼は厳罰を処されるべき他者「異邦人」として扱われてしまう。自身が犯した罪を悔いることの出来ない主人公、彼を詰問する取調官、彼に極刑をもとめる検事、それを囲む陪審員、にもかかわらず主人公との結婚を望む愛人、獄中で懺悔をすすめる牧師。彼らのやり取りから炙り出される問題はあまりに豊か、あまりに深刻なものばかりで、だからこの作品が古典であるということが言えるのだけれど、特に三つの問題が僕の個人的琴線に触れた気がした。

主人公の男は自分の母の死に直面しても感情の変化をみせず、埋葬の日は蒸し暑さばかりが気になり、次の日には何もなかった様にコメディ映画を観に行ってしまう。そのうち事件に巻き込まれたあげくの裁判では、「太陽がまぶしかった」のが犯罪に及んだ理由だと弁明する。自身の周りでの出来事に感情移入をしない主人公の末路を描いたこの作品は、「不条理」を扱っている、と言われたりするけれど、僕の心に響いたのは少し色合いの違う問題群であるような気もした。読んだことない人には是非とも読んでみることをお薦めしたい現代の名作だ。出来るだけ具体的ディテールには立ち入らずに、大きな問題だけをざっくりと書き記しておきたい。

 

 

琴線にふれた一つめの問題は、僕たちが感じる感情や価値の拠り所、その土台の『もろさ』だ。主人公は自分の感情や社会的通念、さらには大切な人への愛情、 その「大切さ」の根拠すらも「よくよく考えてみる」ことで実感出来なくなってしまう。もちろん彼にも色々な感情が巻き起こるけれど、口に出来なかった言葉や言葉の網の目からこぼれてしまう気持ちのせいで誤解を招いてしまう。その「もどかしさ」すら、よく考えてみることで雲散霧消しまう。価値の主観的土台を、自分の思考によって取り外してしまう主人公のこのあり方は、きわめてポストモダン的とも言えるけれど、そんなテクニカルタームが流行る前の1942年に、普段の言葉遣いでこの足場のもろさを描き出しているのがこの小説だ。「なぜ人を殺してはいけないの?◯×をしてはいけないのはなぜ?」こんなことを少し立ち止まってあれこれ考えはじめてしまうと、途端にその根拠があやふやに感じられることはある。多くの人が若いときに感じることかも知れない。少し変わった主人公ではあるけれど、その足場のもろさは完全な他人事としては片付けられないように工夫して書かれている。これが本当にすごい手腕だった。

 

このように完全な「他者」とも言いきれない主人公が 、巻き込まれた事件の果てに取り調べ、裁判、獄中生活を通して魂のない犯罪者のイメージをおしつけられていく。自分の琴線に触れた二つ目の問題は、自分たちと「地続き」の人間である主人公が社会からの疎外されていく過程だろうと思う。

取り調べや裁判のシーンで印象的なのは、「足場のもろさ」ゆえに罪にたいする悔恨の念を感じることの出来ない、またその後悔のなさの原因を説明出来ない主人公に、調査官や検事は全く共感を示せないということだ。それどころか彼らは次のような立場から主人公を断罪していくことになる。反省し悔い改めんとする罪人には酌量の余地があるかもしれない。しかしそれを出来ない者に対してはより重い刑で望むべきではないか? 神にひざまずき赦しを乞う罪人こそが同情に値するのではないか?そうした通念に依拠しない主人公に魂などあるのか?カミュの筆致のおかげで主人公のもろさの所以を察知することの出来る僕たち読者は、検事らのこのロジックが主人公にもある「人間らしさ」を棚に上げたものであることに気づく。むしろ「足場のもろさ」を誤摩化すことの出来ない、その点不器用で誠実な一市民が、「異邦人」に仕立て上げられてゆく様を目撃することになるのだ。こうして主人公(や僕たちの)足場のあやうさの問題を炙り出しつつ、ストーリーは同時に法による正義と社会的通念、そしてそれら脆弱性という、より社会的問題へと読者を誘うことになる。変わったところはあれ、無害でよく働く一市民が「異邦人」として裁かれてしまう逆説の描きぶりは見事と言うしかない。

 

 

では主人公を疎外し、異邦人として極刑を求めた検事たちが悪者だったのだろうか。それならば話は早かっただろう。それとも彼らが主人公に寄り添い足場の脆さについて想像力を働かせるべきだった、つまり社会や裁く側にある種の知的怠惰があった、ということだろうか。しかし、もしもこの想像力の欠如こそが、登場人物たちの職務の遂行や彼らの生活にとって不可欠だったとしたらどうだろう?じっさい取調官や検事は、一種の『防衛本能』にも似た危機感にかられて主人公を排除していくのだ。その彼らを突き動かした焦りは次のようなものだ。反省の色すらみせない犯罪者にさらに重い罰を課さないとしたら、法廷は何を基準に酌量をすればよいのだろう?そんな人間を寛容してしまっては市民の安寧はどのように保てるのか? 法と社会は毅然としてこれを排除し聖職者はこれを厳かに祈る、そうでないとしたら、処罰や社会的制裁の存在意義はどこにあるのだろうか?つまり自分達の社会と生活の基盤を守る為にこそ、登場人物たちは、そして社会は主人公を「異邦人」として突き放し断罪してしまうのだった。

こうして読者は、あらゆる法規や道徳的秩序についての著者の根源的問題提起に直面することになる。これが僕の琴線に触れた最後の問題だ。共同体が法的・道徳的秩序を維持する為には、つねにある種の『線引き』が必要となるのではないか?そしてその線の「向こう側」にたまたま居合わせてしまった人は、たとえ愛情を持ち、もどかしさを感じ、苦しみを味わう血の通った同時代人であったとしても、同情や共感に値しない『異邦人』として処理されてしまうのではないか?この問題は作品の簡明な文体を通じていつの間にか自分たちの問題として迫ってくるものだ。同じ場所に居合わせたならば、僕たち読者は主人公をそのように疎外してしまわないだろうか?そしてそこには初めから一人の「異邦人」がいたのだ、と納得してしまわないだろうか?僕たちの生きる世の中では異邦人として断罪されているものはいないだろうか?僕たちは地続きの同時代人に「異邦人」を読み込んではいないだろうか?そうした「他者」を作らずに社会や道徳の秩序を維持することは出来るのだろうか?これらはこの豊かな短編が投げかける問題のほんの一部に違いない。そしてこれらに対する答えは、もちろん読者ひとりひとりに委ねられている。

 

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