— Still thinking. . .

デモの不安と市民の自由

SEALDSの主催するデモなどに参加し、政府にたいして声を上げたら、就職や、自分の生活のどこかで不都合が生じるだろう。こんな不安を煽る人がいるようだ。たしかに、本当に沢山の人が(僕自身もふくめて)似たような「漠然とした不安」を感じたことがあるかも知れない。

ところで、こういった不安が蔓延する社会に「政治的自由がある」と言えるだろうか。古代ローマや17世紀のイギリスでは、それを「自由が失われた状態」と考えた論客が多くいた。そう考えたのはなぜか。それは、寛大な家長が奴隷に発言や行動の自由を与えてやるのと少しも変わらないからだ。「奴隷の自由」は家長が奪おうと思えば簡単に取り去ることが出来る。このように、自由が恣意的に奪われてしまう「可能性」が常に残されている状態は、本質的に自由が実現しているとは言えない。古代ローマの自由論を継承したイギリスの評論家はそのように考えた。

では、今の日本ではどうだろうか。私たちは、たしかに移動の自由、宗教の自由などが認められている。政治的発言の自由はどうだろうか。奴隷を持つ家長はいない。けれども、顔の見えない「公安」のようなキーワードと一緒に、「職場や学校や就職で不都合が生じるかもしれない」という不安がココロの裏口から忍び寄ってはいないだろうか。僕自身の告白をすれば、2011年の原発事故がおこるまでは、 自由を行使しようと考える以前に、脊髄反射のように政治的発言を自粛してきた自分がいた。説明の出来ない不安を知らずに抱え込んでいたし、不安を内面化していたことについても、深く考えていなかったからだ。

こうした漠然とした、空気のように蔓延する「不安」が持つ、ひそかで、しかし大きな影響を、忘れないようにしたい。政治的信条の自由や発言の自由は色々な方法によって侵害することができる。自由の侵害は、リンチや監禁や不当逮捕だけでなく、まさに「漠然とした不安」を意図的に広げることによって、最も効率的に実現されるのだ。そして皮肉なことに、こうした権利の最たる侵害が「日本のため」国体の「保守のため」などという美辞麗句によって飾られている 。これは当然のことだ。つい数百年前まで、西欧諸国は植民地支配を「社会の改良」「文明の進歩」と言って正当化してきたし、奴隷制だって似たようなスローガンによって誤摩化して来たことが歴史家たちの研究の蓄積によって明らかにされている。けれども、自由の侵害が「社会貢献」のオブラートを包んで忍び寄ってくる構造を、僕たちはコトバであぶり出すことが出来る。 例えば問題 に名前を与え、自分たちの日常をふりかえれば、反省をするきっかけにもなるし、一緒に対策を考えることだって出来る。こうやってコトバを通して、現実を吟味していく作業の可能性を僕は信じたい。戦前の言論統制、大政翼賛体制、そして空襲、原爆、敗戦の後に手にした自由は、家長があたえる奴隷の自由ではなくて、 市民の自由であったはずだ。先代の血と汗と涙を無駄にすることなく、その自由を守り、建設的に使っていきたい。

山本浩司