— Still thinking. . .

挑戦を続けるための姿勢について ー ある教授との会話から

同僚の大先輩と少し前にランチをした。リタイアもそう遠くない教授だ。そのとき彼が言ってくれたことに、一つ印象的なことがあった。知的生産性を失わずに挑戦を続けるための姿勢、その秘密を垣間見た気がした。忘れないとは思うけれど、風化させてしまうのはもったいない。その前に記録しておきたい。

僕の質問は次のようなものだった。いちど論文やモノグラフに膨大なエネルギーや情熱を投下してしまうと、次の論文などを書く時に「まえ以上のものにしないと」という風に感じて自分自身にプレッシャーをかけてしまうのではないか。そうして苦しくなった経験はないか、と質問したのだ。また、あなたのように自分書いた本があまりにも高い評価をえてしまうと、そのあと本や論文を書く時にプレッシャーにならないか? とも聞いてみた。

彼の返事は僕の予想を裏切るものだった。こんな感じだ。「I haven’t achieved much. So I’ve never thought about it.」「たいしたことをやった訳でもないから、そんなこと考えたことなかったよ。」フランクに、迷いも無く言い放たれた言葉だった。

これは日の浅い若手研究者の謙遜ではない。教授は、長いあいだプリンストンの冠名教授だった。彼のもとで指導を受けた研究者は数多く、幾人もが現在関連諸分野のリーダーとなっている。彼自身は5年ほど前にヘッドハントされ、3学期に1回は在外研究を出来るという好条件(そして恐らくは既に高かった給与を凌駕する高給)を手に、プリンストンを離れた。そしてその後オックスフォード大学に招聘されFord Lecturesという連続講義を担当している。これはイギリス史の研究者にとっては、最高の栄誉の一つとされているものだ。R教授との会話に直接・間接に触発され新しい研究を始めた者もおおく、本の謝辞でもR教授への言及をみることが多い。名実ともに業界の巨頭、ドンだ。こうした華々しい業績をもつ彼が「たいしたことを成し遂げた訳でもない」とフランクに言い放つというのは、一体どういうことだろう。その言葉は僕に強烈な印象を与えたし、多分そこには「わりきり」や「自信」や「良い具合の謙遜」が混じったような、不思議なかしこさのようなものがあるような気がしている。

予想外な応答をしてきた教授に、僕は「あなたほどの人が、自分自身のこれまでの業績や他人の評価からプレッシャーを感じないとは意外だ」と漏らした。すると、紅茶を片手にその理由を説明してくれた。

If I think a lot about how well I did before, and start comparing what I am doing now, if I start being worried about what other people might say about this work of mine in comparison with my previous works, then I would go crazy. You cannot work like that. It is impossible – at least very hard – to work like that.

もしも俺がこれまでの成果のことをしょっちゅう考えて、それを基準に今やっている仕事のことを考えてしまったらどうなるだろう。他の人が俺のこれまでの仕事と比べて何を言うだろうかと気にし始めたら、どうなるだろう。多分狂ってしまうよ。そんなふうに考えながら仕事なんてできないんだ。そうやってこれまでの自分と比べたり、周りの評価を考えながら仕事するのは無理だろうし、少なくともすごく難しいよ。

My works are not perfect. No one ever produces perfect works. Some works of mine have been better received than others; certain people have liked certain works of mine more than some other people did. That’s normal.

俺の仕事は完璧じゃないんだ。完璧な仕事なんて誰もできないんだ。確かにこれまでの成果の中には、より良い反応を得られたものだってあった。人によっては俺のこの論文を、あの論文より気にいるというようなことがあったし、そうやって評価や好き嫌いに差があるのは当然のことなんだ。

宗教史を専門とする教授だけれど、意外にも、シェークスピアの劇作(特に歴史劇)を最近の仕事のテーマに選んだ。それについて彼は次のように付け加えた。

If I had cared too much about what others might say, I wouldn’t have been able to write a book about Shakespeare. There are lots of people who work on his plays, you know! Obviously I didn’t want to screw up, or advertise how stupid I am each time throughout the Lectures, so I did put some effort. But I knew I was taking some risk by choosing to talk about Shakespeare. You won’t be able to take risks if you care too much about what others will say.

もし他の人が何をいうかを気にしてしまったら、俺はシェークスピアについて本なんか書けなかったよ。どれだけ沢山の人があの作家を専門にしているか、おまえだって知ってるだろ?そりゃあ、俺だってバカをさらすようなことはしたくなかったよ。だからそれなりに努力はした。ただ、歴史家としてシェークスピアについて分析をすることで一定のリスクを背負ったことはわかっていたよ。他の人が何を言うだろうかと怖がっていたら新しいことなんてできないんだよ。

一字一句正確には覚えていないけれど、こんなようなことを言っていたと思う。冗談まじりの会話には、やはり泰斗としての自信も垣間見えた。けれど、教授は、少なくとも日々の仕事に携わっている時は、業績にもとづいた自分についての自信や誇りを前面に押し出してはいないようにみえる。むしろ、他人の評価なんて管理できないのだから気にし過ぎてもしかたない、というある種の「わりきり」をみせている。そうして過去の自分や周囲の眼から自分を自由にしているあたりに、経験に根ざした豊かな知恵が感じられた。

彼とて自分の書いた本についての書評を無視しているわけではないようだ。実際教授は、自分が書いた本についての書評は確認していると言っていた。人知れずハラハラしたり、一喜一憂したりもするはずだ。ただ、そういう気持ちの上り下がりから、一定の距離をとるような余裕もきっと持ち合わせているのだろう。つまりこうだ。ジェットコースターのように感情が上がり下がりするのは格好悪い。へりくだったり、物事について諦めたりユーモアをもって斜に構える余裕をもちながら、淡々と仕事をしていく。批判されることもあるし、けなされることもある。もちろん、評価してくれる人もいるのなら、賛辞を止めてもらう理由もないのだ。今振り返ってみると、教授の応答には、なんともクールな「そぶり」があるとも言えそうだ。

他人やこれまでの自分との比較を避けることが、教授自身の「自己防衛」にもなっているとも言える。実際には「謙遜する余裕」を軽く身にまとっていることで、なんとか仕事をこなしているのだろう。そうでないと、プレッシャーに押し潰されるほどの地位と周囲からの期待を長いこと背負ってきたのだ。

つまり、彼の歴史家としてのスタンスには、なんともイギリス人らしいところがあって、きっとそうしたスタンスを上手くつかって、業績が増え、名声を手にし、アイビーリーグの教授になり、学会にいけば周りに研究者や編集者があつまり挨拶してくるようになっても、自分の地位を誇示することはせず、ある時はそうした事実から自由に、そしてある時は軽妙かつ尊大に振る舞って、仕事を続けてきたのだろう。こんな謙遜とプライドとウィットが交差したところに、ひとりの大教授の衰えぬ仕事ぶり、知的生産性を失わずに挑戦を続けるための秘訣があるのかもしれない。