— Still thinking. . .

レオナルド・ミケランジェロ展 

三菱一号館美術館であったレオナルド・ミケランジェロ展に行ってきた。最近東京でみた西洋美術展のなかではキラリと光る素晴らしさがあったとおもう。その要素について考えてみたい。

本展覧会は、鉛筆やチョークで書かれたデッサンを中心に企画されたものだ。イタリア語ではデゼーニョというらしい。出展数は70点と決して多くないが、広々としたスペースの使い方に作品が展示されており、出展数以上の数が展示されていたかのような印象をうけた。デッサンを中心した展覧会と聞けば、有名な油絵が借りられないので、替わりに原画を集めて展示会に漕ぎつけたのだろうかと勘ぐりたくなるむきも、あろうかとおもう。僕自身にそう行った先入観がなかったわけではないことを告白しなければならない。

そういった期待で臨んだ方は、よい意味で裏切られるだろう。
そのような意外な豊かさが、この展覧会にはあった。

それはデゼーニョに焦点を絞ったからこそ、ルネサンスの二大巨頭ともいえるレオナルドとミケランジェロの創作の過程に光を当てられ​たということだ。例えば「人体表現」をテーマにした展示室(第3章)では、「芸術家の頭の中にある創意が、初めて形をとる場所としての素描」とあるミケランジェロの習作が展示されていた。馬にフォーカスした次の展示室では「レオナルドが生きた馬の素描から始めて、やがて自由なポーズを描き出すまでの過程を見」るように来場者の僕はうながされた。

このように充実した解説が多く見られたのがこの展覧会の特徴だった。キュレーターチームは、そこに展示された素描の展示をとおして、その背後にある巨匠のクリエイティブ​なプロセスに、来場者を​いざなうのだった。このようなアプローチは、デゼーニョに的を絞ったからこそ可能になったもので、それがこの展覧会の​驚きを伴った豊かさになってい​たのだ。

もちろん、このような展示がうまく機能するためには展示室の解説が充実していることが必須の条件となる。この点でも、上の二つの例が示すように、この展覧会は大変優れていたようにおもう。 しっかりとした研究の成果が、分かりやすく展示に活かされていた​のではないか​。​

​ただし、​ベタ褒めではつまらない​かもしれない​。作品個別の展示については、以上の通り申し分ないの驚きと学びがあった​。その​一方で、全体の構成については​、​同様の感嘆は覚えなかったことを申し添えておこう。展覧会中盤からの構成は、人体表現、馬と建築、神話の白鳥ときて​、その次に​「手稿と手紙」​のセクションがあり、最後に「肖像画」になる。​最後から二番目の位置に二人の巨匠が書いた手紙とダビンチの手稿のファクシミリ(精巧な複製品)を展示し​た意味はなんだったのだろう? ​少なくとも僕には、その意図を汲み取ることはできなかった。ファクシミリについては、展示内容を選択の余地があったはずだ。その利点を活かして、例えば弟子やパートナーとの共同の創作の過程がみられるような内容を選んで、展示の前半に来場者に見せることもできたかもしれない。そうすれば、巨匠の作品と創作過程が、個人の才能にのみ依拠するものではなく、意外にも「集団的」かつ「組織的」側面を持っていたことが、より鮮明に示せたのではないだろうか。

​このような指摘は、この展覧会の素晴らしさをなんら減ずるものではないことを強調しておきたい。展覧会の最後は、会期途中から展示されたミケランジェロの大型彫刻だ。力強い傑作で、日本で鑑賞できること自体、本当に貴重なことではないだろうか。その素晴らしさ​は、来場者の特権だろう。詳細に書くことは控えたい。

​デゼーニョがみせる豊かな創作過程に的を絞った​この展覧会は​、企画の意外さと、基盤となる高い学術性という点において、おそらく西洋美術展覧会が目指​していくべき​一つの​モデルを示している​ようにさえ思えた。キュレーターと解説の執筆に関わった方々には​、惜しみなき賞賛をすると同時に、​これからも​さらなる​活躍を期待したい。来場者は、​この展覧会に来ることで​​今後​ルネサンス絵画をこれまでとは違った仕方で〜完成品の背後にある共同作業や創作のプロセスへの想像力を働かせながら〜鑑賞することができる​ようになるだろう。

**** (4/5) [オーディオガイド未使用]

レオナルド×ミケランジェロ展 9月24日(日)まで
会期最終週平日は20:00まで
展覧会ウェブサイト