— Still thinking. . .

研究者としての焦りと「人生の危ない曲がり角」

先日、僕自身の昔の状況をよく描き出した、ハッとさせられるような文章に出会ったので、ここに記録をかねて紹介したい。映画監督として知られる黒澤明だが、20代の頃は、画家を目指していたらしい。その時を振り返った黒澤の自伝からの一節だ。

黒澤明 『蝦蟇の油 自伝のようなもの』、岩波現代文庫、2001年、168ー170

画家として生活を立てていくのは、当時、今よりもはるかに困難なことだったし、私は自分の画家としての才能にも疑問を持ちはじめていた。セザンヌの画集を見たあとで表へ出ると、表の家や樹木はセザンヌの画のように見える。

たとえば画家を研究者と、画集を論集と、読み替えることもできそうだ。もちろん別の読み替えもできるだろう。黒澤は続ける。

ゴッホやユトリロの画集を見たあとでも、これと同じように、すべてがゴッホやユトリロの眼が見たように見える。そして、いっこうに私自身の眼で見たようには見えないのだ。つまり、私独自の目で物が見えないのである。今にして思うと、これは当たり前の話で、そう簡単に自分の眼を持てるわけではない。
しかし、若い私は、それが不満だったし、不安でもあった。そして、無理矢理自分独自の見方をしようと、ただ焦った。また、いろいろな画集をみても、日本のどの画描きも個性的な画を書いているし、独自の眼を持っているように思えて、ますます焦った。

これも、今振り返ってみると、本当に自分の眼を持って、独自な画を描いていた人はほんの僅かで、あとは無理な細工をして奇を衒っていたに過ぎない。

誰の作だったか忘れたが、赤いものを素直に赤いと云えないで年を過ごし、それが素直に云えるようになった時は早や晩年だ、という歌があるが、全くその通りで、若い時は自己顕示欲強過ぎて、かえって本当の自分自身を見失う者が多い。私も、その例に漏れず、無理な細工をして画を書いて、その画の衒気に自己嫌悪を感じて、次第に自分の才能に自信を失い、画を描く事自体が苦痛になって来た。

この一説には身に覚えがあるように感じた。僕の場合は、学部を卒業して留学してこのかた、自分に学者として可能性があるかをハッキリさせて欲しい、「ダメならダメ、良いなら良いとサッサと判断してほしい!」というじれったくもどかしい感覚を持っていた。特に博士を終わらせるまでは力が出し切れていないような苦しさ、独自の見方があるはずなのに、それがアウトプットにはうまく反映されない感覚があって本当に苦しかった。似たような感じをもつ人もいるのだろうか。アカデミアのあまり美しくない一面として、「そんなこともご存知ないんですか?」「自分はお前よりも賢いんだ」というself-fashioningをあの手この手で続けるような側面があると思う。ハッキリ言って、僕はあまり得意じゃないし、今だって好きになれない。そんな中で自己顕示欲を否が応でも競い合うことを覚えた若手研究者は、まさに独自性の証明が不完全であることに、そして自分の書いたものと、巨匠たちの仕事ぶりとの厳然たるギャップに、自己嫌悪を感じたりするのではないだろうか。

黒澤に戻ろう。黒澤は、彼が直面した自己嫌悪やその状況を「人生の危ない曲がり角」と表現した。(実際は、兄の自殺や、もっと難しい問題もあったことが、自伝では語られている。)では、その難しい局面をどうやって乗り越えたのか?

これは私の人生の危ない曲がり角だったように思う。しかし、父は、そのはやる私の手綱を取って離さなかった。焦るな、焦ることはない、と焦る私に父は言った。焦らずに待てば、自ずと進路は開ける、という父の言葉に、どういう根拠があったのかよくわからない。多分、自分の苦い人生行路の経験がそう言わせたのだろう。そして、その言葉は、驚くほど正確に的を射ていたのである。

たったこれだけである。読んでいて少し拍子抜けた。成功の秘訣を何ページも使ってつまびらかにして欲しいようにも感じた。ただ「焦らずに待てば、自ずと進路は開ける」というシンプルなメッセージには真理が宿っているようにも感じられた。おそらく「焦らずに行動を積み上げれば、自ずと進路は開ける」という意味だろうと思う。では、焦らずに行動を積み上げる、とはどういうことだろうか。僕にとっては「長距離走」のメタファーが一番しっくりきた。博士の2年目の終わり頃からたまたま実際にジョギングをするようになって、そして同じ頃に村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んで、身体的なリズムやペース配分と、研究の営みが相似的関係にあること、そう感じる人がいるのだということがわかって、それが転機になったようだ。それからは「自分は長距離走者なんだ」「カッコつけていえばアスリートなんだ」と考えるようになった。そうすることで、不思議と「早く答えを出して欲しい」という焦りが消えて言ったように思う。それは自分のペースを乱してしまう要素でしかなくなった、ということだろう。

だから、最近振り返って思うことは「ずいぶん遠くまで走ったなぁ」ということ。もちろん、僕だって駆け出しの長距離走者で、まだコツが掴みきれていないし、学ぶことばかりだ。走り方を工夫し、そうしてマイペースに距離を伸ばして行くがきっと研究者人生というものなのだろう。実際のアスリートと違い、まだまだ走ることができそうにも思う。これからは、どんな風景が見えてくるだろうか。